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2011年5月 Archive

断髪式

  • 2011年5月30日 16:54

元前頭の春日王がこの度引退し一昨日国技館で断髪式行われ
当社お客様の伊藤稔さんからお声がかかり参加しました。

数年前にやはり伊藤さんのお誘いで川崎市唯一の相撲部屋の
春日山部屋の後援会に入って激励会に初めて出席したとき
春日王がちょうど私の向いの席で、その人柄、周囲に対する
気配りに一度でファンになったことは以前ブログにも書きました。


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韓国生まれの春日王は3歳で父親を亡くし、大学3年のとき
韓国相撲のチャンピオンになり、春日山親方に誘われて来日。
1998年11月に初土俵を踏みその後順調に出世して、2002年
7月に十両に昇進し、初の韓国出身の関取となりました。

2003年1月場所で新入幕を果たし、その場所は10勝5敗で
敢闘賞を獲得し将来を嘱望されたのですが、その後は
足の肉離れや痛風に悩まされ、最高位は前頭3枚目でした。

私が彼と何回か話して感じたのは、あまりに性格が良すぎて
格闘技には不向きではないかということで、前頭で終ったのは
怪我のせいだけではないような気がしています。


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今回の断髪式ではさみを入れた人は260人。
アイウエオ順に名前が呼び上げられ土俵に上がります。
私のすぐ後に伊藤さん(写真下)しばらくして税理士の布野先生。
芸能界からは松方弘樹や韓国通の黒田福美が参加。
一般の後は幕内力士で横綱白鵬も最後に加わりました。


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春日王は先場所十両で優勝してこれからという矢先に
八百長疑惑に巻き込まれ、協会から引退勧告があり
受けなければ部屋の存在も危うい状態の中で弁明の余地も無く
「問答無用」のかたちで引退を余儀なくされたのです。


断髪式1 (7).jpg


彼は相撲界から足を洗い、これから日韓の間をビジネスで
行き来するようです。常に相手の事を先に考え、人をそらさない
彼の性格はこの騒ぎの前から私はむしろビジネス向きではと
思っていました。第2の人生の成功を心から祈っています。


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イタリア山庭園の家

  • 2011年5月13日 19:18

JR根岸線の石川町駅を降りて元町通りの
手前の急坂をフェリス女学院まで一気に上ると
旧外国人居留地の雰囲気が今でも残っている
山手本通りに出ます。

イタリア山庭園1.jpg


通りを左に折れると、エリスマン邸や外人墓地
港の見える丘公園など山手の中心地になりますが
先週の連休の一日、この右方向のイタリア山庭園にある
2つの洋館を訪ねました。

横浜山手に住宅や教会が建てられたのは明治の
初期からで、フェリスが現在地に校舎を建築して
生徒14人でスタートしたのは明治8年だそうです。


イタリア山庭園2.jpg


先ず見たのは「外交官の家」で、もともと内田定槌
という外交官が明治43年に渋谷・南平台に建てた家で
子孫が横浜市に寄贈し平成9年に移築・復元されました。
施主の海外暮らしが長かったこともありビクトリア風の
デザインで、国の重要文化財に指定されています。

内田が明治35年からニューヨーク総領事を務めた時
ポーツマス条約締結のために渡米した小村寿太郎の
支援にあたったというのは興味深いエピソードです。


イタリア山庭園3.jpg


イタリア山庭園4.jpg


設計者を調べてみるとガーディナーというアメリカ人で
立教中学(後の立教大学)の教師として来日し校長まで
務めた後、建築家に転進したという面白い経歴の持ち主でした。


イタリア山庭園5.jpg


もう一つは「ブラフ18番館」で、関東大震災後に
建てられた外国人の住宅です。平成3年まで山手教会の
司祭館として使われた後、横浜市に寄付されました。

こちらの方がもう少しモダンな感じですが、1階の
リビングからサンルームにかけての明るく解放的な空間は
まさに外国人住宅の特徴といえるでしょう。


イタリア山庭園6.jpg


イタリア山庭園7.jpg


今の日本の住宅は「和室」がほぼ消滅するなど洋風化の一途を
たどっていますが、その原点となっているのは明治・大正期に
建てられたこれらの住宅であり、横浜市がその保存に力を
入れていることは意義深いことです。

塩釜とその周辺

  • 2011年5月 6日 13:34

宮城県の塩釜に住んでいる家内の叔父と叔母は
3月の大震災のあと1週間近くたってやっと連絡が取れ
無事が確認されました。落ち着いた頃を見計らって
先週末に塩釜を訪れました。


塩釜 (1).jpg


仙台・石巻間を結ぶ仙石線は途中の東塩釜駅までで
叔父の家は2つ前の西塩釜駅で下車して5分ほど
塩釜湾に向ったところですが、高台のため難を逃れました。
駅の改札脇には「津波浸水予想図」という図が平成17年の日付で
貼ってあり、津波災害に対する注意はされていたようです。


塩釜9.jpg


車中から外を見ても、瓦屋根を修理している家が
時々ある程度で、家屋が大きく崩れているところは
叔父の家に到着するまでもほとんど見られません。

塩釜湾は地図で見ると松島湾の一部で、観光名所の
松島町は島々が防波堤となって、死者・行方不明者は4名。
また塩釜市は21名ですが松島湾の外側になる東松島市は
約2000名と地理的条件がたいへん明暗を分けています。

地震発生から10日経って電気、水道、ガスの順で復旧した
そうで"オール電化"の宣伝文句の「災害があっても電気が
一番早く復旧する」というのは本当でした。


塩釜1 (2).jpg


塩釜8.jpg


叔父の運転で塩釜を出てしばらくすると、崩壊した家屋や
水と泥と瓦礫に覆われた田畑などの光景が目前に広がります。
同じ場所でも全く無傷の家屋と基礎部分だけの家屋があり
何がこの明暗を分けたのか・・・人知の及ばないところで
やはりこの世の仕組みは作られているのか、と思う瞬間です。


塩釜1 (4).jpg


塩釜10.jpg


仙石線の野蒜駅は構内が泥に埋まり、早期の全線復旧が
困難なことを感じさせます。その脇の水路には、お寺の
建物の屋根部分が無残に横たわっていました。


塩釜1 (7).jpg


戦場の爆撃の跡のような光景を写真に撮るとき必ず感じた
"躊躇"を忘れることなく、いつもこの地域を意識して
その復興のために長期に渡りできることを実践していく。
それが幸運にも災害に遭遇してない側の努めだと確信しました。


塩釜1 (6).jpg

支援バザー

  • 2011年5月 2日 15:00

一昨年に引き続き、NPO法人のアシストを支援する
バザーを今年も4月29日に開催しました。

2回目で多少楽だったかというとそうでもありません。
前回は考えなかった雨天の時の順延日を5月1日と
しましたが、その決定はいつしたら良いのか?

模擬店のお餅の仕込みは前日の夜から行います。
といって前夜の予報で中止を決めて当日雨が止んだら
どうするか、悩みは尽きません。1週間前の長期予報で
当時の晴天が確認できたときは、まずホッとしました。


バザー2-1.jpg


次の心配の種は前回の開催から2年間という期間で
提供品がどのくらい集まるかということ。
バザーの品物提供のお願い通知を約600名のお客様に出して
さらにジェクトニュースを送る封筒に再度協力のお願い文を
同封しました。

そのかいあって再び品物が集まり始め、何とか皆さんの
ご協力で前回と同様約1000点の品揃えができました。

一昨年は開始の10時をしばらく過ぎても誰も来なくて
本当に人が来るのか心配しましたが、今回は9時50分に
朝礼を始める頃、もう10人以上並んでいたのにはビックリ。
一度目が好評だったからでしょうか?


バザー2-2.jpg


バザー2-3.jpg


最初の1時間の出足は素晴らしく、夫婦がそれぞれ
大きなビニール袋を2つずつ抱えてレジに並ぶ姿も
珍しくない光景でした。お昼頃には5~6段位積んであった
タオルや毛布などの箱は1段になっていました。


バザー2-4.jpg


バザー2-5.jpg


また模擬店もなかなかの人気で、今年も下小田中の
朝比奈さんにご協力をいただいたお餅は、長い行列が
できて2時間で完売しました。


バザー2-6.jpg


バザー2-8.jpg


終了後のミーティングで収益が前回の2倍以上の
約58万円に上ったという発表があり、休日返上で
参加した多くの社員とアシストの10人の参加者から
拍手が起こりました。

当社のお客様、協力会社そして地域の人々の善意で
知的障害者を支援するこのような催しを開催できたことが
企業理念にある"地域に必要とされる企業であり続ける"
ことの実践に繋がればたいへん幸せです。


バザー2-7.jpg

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