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2012年10月 Archive

人生大勝負

その店が広島市の路地裏に開店したのは1984年のことである。
山口県宇部市の洋装店に見切りを付け、カジュアル衣料に
舵(かじ)を切った。屋号は「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」。
ユニクロの出発点だ。

千を越える店舗、1兆円の売上高に迫るファーストリテイリング
会長兼社長の柳井正氏、35歳の時である。それから28年。
「成長しなければ即死する」。近著『現実を視(み)よ』(PHP研究所)
で拡大路線一本やりの経営論を説くが、挫折も味わった。

着ている服がユニクロだとすぐ分かってしまう「ユニばれ」と
敬遠された時期があった。昨今も「デフレの元凶」と批判されながら、
当人は馬耳東風の様子だ。「圧倒的ナンバーワン」を掲げ、
世界市場で5兆円を目指すという。

強気とワンマン経営なら、こちらも負けてはいない。柳井氏が
社外取締役を務めるソフトバンクの孫正義社長である。
16歳で単身渡米。帰国後に設立したパソコンソフトの卸会社を、
売上高3兆円のグループに育て上げた。

今年の日本の富豪40人ランキングでは3位だ。1位の柳井氏の
後塵を拝したが先日は投資額1兆5千億円という米携帯大手の
買収を発表した。「男子として世界一を目指す」と胸を張った。

孫氏が19歳で立てた「人生50年計画」では、30代で軍資金
千億円,40代に一勝負、50代で事業完成となる。その「完成」
途上の大勝負だ。勝率7割と見たら果敢に戦う。それ以上の
確率を期待したらタイミングを逸する」のだそうだ。

知将

就任1年目で日本ハムをリーグ優勝に導いた栗山英樹監督の
理想の指揮官は、西鉄ライオンズ監督だった三原修氏という。
その名を聞けば、とりわけ60代以上の世代にとっては、
懐かしさとともにあの時代の光景がよみがえるに違いない。
プロ球界随一の知将といわれた三原氏は、その采配ぶりから
「三原魔術(マジック)と呼ばれた。

圧巻は1958(昭和33)年の日本シリーズだった。巨人に3連敗を
喫し後のない西鉄は、鉄腕稲尾和久の連投で4連勝を果たし、
奇跡の日本一といわれた。中西太がいて豊田泰光がいた。
西鉄の黄金時代だった。大スター長嶋茂雄はこの年巨人に入団し、
新人王を獲得した。

三原氏はその後、大洋ホエールズの監督に転じ、前年最下位の
球団を日本一にした。スポーツキャスターとして知られた栗山監督は
監督業はもちろん、コーチの経験もない。 しかし、選手掌握のうまさは
三原氏に共通する。そう指摘するのは、スポーツジャーナリストの
二宮清純氏だ。

例えば、1割台の打率で不振だった主砲の中田翔を4番として
使い続けた。批判もあったが、将来は球界を代表するスラッガーに
との思いからだ。クライマックスシリーズを制した日本ハムの
日本シリーズの相手は巨人に決まった。背番号{80}は三原氏の
それにちなむという栗山監督の采配に注目したい。

デジタル革命

長い間続いた「紙と鉛筆の時代」が「ワープロの時代」となり、
あっという間に「パソコンの時代」になった。こうも変わるか、
というほど飛躍的な変化だが、デジタル機器は今や生活の
必需品となった。

日本語のワープロが誕生したのは、1979(昭和54)年のことだった。
東芝の[JW-10」。前年の9月26日に東芝が発表し、この年の2月に
発売さてた。価格は630万円だったという。わずか33年前の話である。

その後、機能アップした新機種が次々登場して普及、価格も下った。
その「ワープロ時代」は短期間で終わった。情報通信の進歩と相まった
「パソコン時代」が到来。ワープロとは、有する機能が桁外れに違う。
それも年々進化して企業の経営、生産ばかりか、社会生活面にも
深く浸透する。

通信はできる、情報はとれる、買い物はできる・・・ワープロが登場した時、
抵抗した団塊世代にも違和感がない。まさしくデジタル革命だが、
その意識原点はワープロだ。最近「ワープロの日」(9月26日)があった
のを知った。初めて触った時の感触が何とも懐かしい。

ノーベル賞

 「人間万事塞翁(さいおう)が馬」。
ノーベル医学生理学賞受賞が決まった山中伸弥・京都大教授は、
研究者としての歩みをつぎのように例えられる。人生の幸・不幸は
予測できないものだ、と。決して順風満帆ではなかった。
そんな思いを込めた言葉らしい。

挫折の連続だったという。研修医時代、手術が下手で、
普通なら20分で終わるところを2時間かかった。教官から
名前をもじって「じゃまなか」と呼ばれたとか。こんな話を聞くと、
日々、青息吐息で日々の生活と格闘している身には
なにやら親近感が沸いてくる。

脊髄損傷や重症のリウマチなど根冶療法のない患者が
多いのを見て、研修医時代から心を痛めてもいた。
「彼らの治療法を開発するには基礎研究しかない」。そんな思いも
あって、研究者に転身する。これが世界を驚かせた人工多能性
幹細胞(iPS細胞)開発につながる。本当に人生は分からない。

iPS細胞は「万能細胞」だ。病気やけがで失った組織を
よみがえらせる再生医療や難病の研究に新たな可能性を開いた。
「一日も早く応用し、社会貢献を実現したい」「難病の患者さんは
希望を持って」。山中教授のはやる思いが伝わってくる。

研究を理解してもらえず、一時、うつ状態になったこともあった。
そんな試練も「治らない病気を治るようにしたい」の一念で乗り越え、
画期的な成果を挙げた。とはいえ「実際に患者を救うまでは、
ノーベル賞を喜んでばかりもいられない」と山中教授は言われる。
そんな人だからこそ、日本中が受賞を祝福しないではいられない。

体育の日

10月8日のお休みは「体育の日」だ。ああ、そうだった、と
思いつつ違和感が消えない。カレンダーの赤い文字もなんだか
居心地が悪そうにみえる。

一部の祝日を月曜日に固定し、土曜日からの3連休を増やそう
という「ハッピーマンデー制度」が始まったのは2000年。
あらためて確認して、導入から意外に時間がたっていることに
少々驚いた。以来「10月の第2月曜」と定められた体育の日は、
8日から14日の間をあちこち行き来している。

しかし、私たち"昭和の子"にとって体育の日といえば「10月10日」。
かなり強く刷り込まれているのか、なかなか今のシステムに
慣れられずにいる。ちなみに祝日になったのは1966年で、
10日の日付は、前々年の東京五輪の開会式の日だ。
祝日法によると「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」
日となっている。

始まって13年にもなる制度をつかまえて今さら批判もないが
「お祝いの日」の由来や意味が少しづつあいまいになっていくのは
なんとも味気ない気分だ。「祝日」はこの国の歴史や価値観の
現われでもある。私事で失礼だが、父の命日が10月10日で
「体育の日」だと覚えられていたのに。

時刻表の日

10月5日は「時刻表の日」だった。1894(明治27)年、
日本最初の本格的な時刻表「汽車汽船旅行案内」が創刊された
日にちなんだ記念日のようだ。たった1駅でも、立派な旅になる。
あるいは実際に乗らなくても、行楽の秋は殊に、鉄道の旅に
心ひかれます。

今のJTBの大判の時刻表は千ページを越す。この時刻表を
「読む」のが趣味の一つです。路線図をにらみ、行きたい場所への
旅程をあれこれ検討し、乗り継ぎを考え到着時間から逆算しながら、
細かな数字を飽かずに追っていく。机上の、想像の旅は
自由自在です。

幼少時の長距離移動はもっぱら鉄路。高校への通学や
大学時の帰省もほとんど鉄道だった。今も列車の旅は大好きです。

その時刻表は様変わりした。インターネットで検索すれば、
出発から到着までの時刻や料金が瞬時に調べられる。
便利なのは確かだが、旅への期待を膨らませながら紙の時刻表を
ぺらぺらとめくる至福のときがなくなったのは少々寂しく感じます。

JR東京駅

JR東京駅が5年に及ぶ保存、復元工事を終えて開業した。
東京駅は、首都の中央駅で国の玄関でもあり、何より
創建当初の赤レンガの威容が復元したのが素晴らしい。

駅舎内の東京ステーションホテルは、さすがにリニューアルオープン。
作家の川端康成や松本清張がよく利用したことで知られるが、
大の列車好きだった内田百閒もその一人だ。毎年の年始に
このホテルで大宴会を開いたそうだ。

東京駅は、浜口雄幸首相が銃殺された悲劇の現場でもある。
撃たれた後、「男子の本懐だ」と声を絞り出したが、翌年に死去。
現場を示すプレートが駅舎内にある。

そんなこんなも、大正期からの歴史と伝統を引く、風格ある
赤レンガの駅舎であってこそだ。バブル期には駅の高層化計画も
浮上したというが、そんなことを考えること自体、浅はかだろう。
同じ東京でも「道の起点」日本橋は今、高速道路に覆われて
見るも無残な姿だ。

だいたい日本は、建物などが老朽化すると「新しい物好き」が表れて、
いとも簡単に造り替えようとする。欧州では全く発想が逆のようで、
まず保存や復元を考え、その代わりに内装は現代的に改造した
建物が多い。そうして重厚な街並が保たれている。


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