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故郷忘れがたき

司馬遼太郎に「故郷忘じがたく候」という短編がある。
秀吉の朝鮮出兵で日本に連れ帰られ、薩摩藩に陶工として仕えた
一族の子孫に取材した物語で、渡来して幾世代を経てもなお
尽きることない朝鮮への思いが描かれている。

作中には望郷ゆえの数々のエピソードがつづられるが、
若いころ読んだ時はそれがピンとこなかった。
今になって感慨深く思い返したのは、原発の警戒区域にある
わが家へ一時帰宅する福島の人々の姿を見たせいかもしれない。

よぼついた足取りでバスに乗り込むお年寄。小さな体に
ものものしい防護服がまったく釣り合わない。
テレビの画面にちらりと、東北のさわやかな初夏の風景が映る。
今度ここに帰る時、お年寄はいくつになっているだろう。

連休明けから梅雨入りまでの時期の古里を自慢にする東北人は多い。
雪解け水が流れ、空気が暖み、山笑う美しい季節を。
原発周辺の町や村でも、「見てよ」とばかりに山々の木々の若葉が
緑の衣をはためかせているに違いない。

国会では政府の行動をめぐる追及が続いている。
注水中断を「言った」「言わない」の議論は白熱しても、
「いつ帰れるか」に答えられる人はいない。
忘じがたき古里の山河は東シナ海の向こうではなく、
すぐそこにあるというのに。

「安全」という言葉を信じて原発を受け入れ、都会に
明かりを送り続けた東北の土地。美しい古里の思い出を
ビニール袋一つに詰めて去らねばならぬ人々に、
長きにわたる望郷を味わわせてはいけないと思う。

(M.N)


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