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2013年1月 Archive

円高と円安の変動

対立する価値観の双方を丸く収めることがいかに至難か、
その立場を最も痛感するのは政治家だろう。円高に怨嗟
(えんさ)の声が上がっていたのにいざ円安に振れると
今度は逆の声が上がり出したからだ。

どこまでも平行線をたどる円高と円安の変動はいずれかの側に
利益をもたらし、一方には逆となるのだが、近年はずっと円高が
続いていたため輸出産業を中心に是正の要望が高まっていた。
安部政権の誕生でインフレターゲットが定まるとすぐ市場が反応、
久しぶりに円安基調となったことに喜びの声が上がるのは当然だ。

しかし誰もが円安を歓迎しているわけではない。原材料を
外国から輸入している側には円の目減りとなるので、こちらの
市場もただちに反応した。原油、ガス、石炭、その他天然素材を
高く買うハメになれば一転して円安反対の空気が高まっていく。

輸入も輸出も為替の変動が利害に直接結びつくため、
当事者が一喜一憂するのは仕方ないが、良いときは
口をぬぐっておいて悪くなると騒ぎ出すというのは勝手すぎる。
そこは考えようで、どちらが国益にかなうのか比較してみるのも
ムダではあるまい。

一般庶民には例えば輸入原料を安く入手できる円高の方が
プラスになる。しかし円安となって貿易高が増え、それが経済を
潤すならそちらのメリットも大きいはずだ。つまり二人の息子が
傘屋と下駄屋だったら、雨にしろ風にしろどちらかが困ると考える
のではなく、どちらかが儲かるとプラス思考すれば、そう大騒ぎする
必要もないと思うのだが、甘い考えか。、
           

日野原重明さんの講演

先日、聖路加国際病院理事長の日野原重明さんの講演を聴いた。
長寿や健康の秘訣を伝授する講演は人気があり、会場は満員だったが、
この日の演題は「緩和ケアの今後の課題」だった。それでも
終末期医療の実態をユーモアを交えてしゃべられ、時折会場を
沸かせておられた。1時間、つえも手にせず立ったままだった。

避けられない最期を見つめたことが2度ある。義父と友人だった
同級生の死。どちらも末期がんだ。義父は最初、緩和ケア病棟へ
入ることを拒んだが、痛みに耐えかね処置を受け、眠るような最期を
迎えた。友人は自宅での最期を選んだ。通夜で親父さんが
「あんなに苦しむとは」と目頭を押さえていた。

日野原さんは「身内を失うと自分の過去を失う。といわれる。
友を失うと自分の一部を失う」といわれる。失ったものは慰めの言葉では
埋めきれない。「時間が解決することを信じること」なのだ。
緩和ケア施設は大幅に不足しているそうだ。縁者が身近にいない
独居高齢者の最期をだれが看取るのか。

施設増に取り組む日野原さんは「患者が納得するケアを施し、
最期に感謝の言葉と気持ちを引き出すのが寄り添う人の使命」
といわれる。穏やかな表情だが、101歳の重鎮の言葉は重い。

経済再生

「三本の矢」と聞いて、サッカーファンならJリーグの
サンフレッチェ広島を思い浮かべるのではないか。
日本語の三とイタリア語で矢を意味するフレッチェをつなげた造語だ。
三本の矢の由来はもちろん毛利元就だ。安芸(現在の広島県西部)
を拠点に、中国地方のほぼ全域を支配下に置いた戦国大名が
3人の子に書いた「三子教訓状」が基になって作られたとされる
有名な逸話が「三矢の教え」といわれる。

1本の矢では簡単に折れてしまうが、3本まとめると容易に折れない。
戦国の世を生き抜くために3人の結束を説く話として知られているが、
安部総理はデフレ脱却に取り組む例えとして「三本の矢」を持ち出したようだ。

政府が閣議決定した緊急経済対策では、金融緩和、財政出動、成長戦略を
「三本の矢」と位置付けて経済再生に取り組むという。近く閣議決定する
補正予算案では民主党政権下では、減少傾向が続いた公共事業が
大きく復活する。

経済対策として景気刺激に即効性のある公共事業に頼らざるを得ない
という点では変わり映えしない。安倍政権の誕生以来、市場は
経済対策への期待感から円安、株高に触れてはいる。
アベノミクスとも呼ばれる「三本の矢」は景気刺激とインフレ促進の
アクセルを踏むものだ。多くの庶民が景気が良くなったと実感できる
ものになるか、注視していきたい。

大横綱大鵬関

大鵬の土俵人生は高度経済成長とともに始まり、抜群の強さで
たちまち少年たちのヒーローになった。「巨人・大鵬・卵焼き」が
流行語になったほどだ。幕内優勝32回の記録はいまも破られていない。
その昭和の大横綱が亡くなった。「一つの時代が終わった」。
かってのファンはそんな喪失感に沈んでいるのではなかろうか。

大鵬は「天才」と言われるのを嫌ったそうだ。「ぶつかり稽古も四股や
てっぽうなどの準備運動も他の人の3倍はやって努力した。
天才なんかじゃない。鍛練が結果に表れただけ」。そう言う。
この努力する才能こそが天才たるゆえんだったのだろう。

けいこ場で初め猛烈なしごきを受けた。倒れると口の中に
塩や砂をがばっと入れられる。好きな言葉が「忍」と言うだけあって
それに耐えた。少年時代の貧しさが忍耐力を培ってくれたのだろう。
くじけそになると、決まって師匠が特大のビーフステーキを
ごちそうしてくれた。蔭ながら見守ってくれていたのだ。


横綱に同時昇進した柏戸の存在は大鵬にとって幸運だった。
互いに早くから闘志を燃やした。この闘争心が「柏鵬時代」を築いた。
柏戸の「剛」」大鵬の「柔」の激突は相撲ファンにはたまらない
魅力となった。「柏戸関がいたからこそ、私は頑張れた」が
大鵬の口癖だった。

「社会への恩返し」も忘れない。日本赤十字社に献血運搬車を
計70台も贈り続けた。大鵬の相撲人性は「努力」「忍」「感謝」の
心の大切さを教えてくれる。精神面でもまさに大横綱だった。

駅弁パラダイス

JR東京駅の赤レンガ駅舎が復元され、観光客の人気を集めているが、
もう一つ大きくにぎわっているのが全国の駅弁コーナーだ。
昨年8月、駅構内に開店した「駅弁屋の祭り」には、山形・米沢の
「牛肉どまん中」や香川の「たこ飯」など170種に及ぶ名物駅弁が
並べられ、買う人で混雑している。

駅弁は1885年に現在のJR宇都宮駅でたくあんを添えたにぎり飯を
竹の皮に包んで売り出したのが始まりとされる。それが今では、
新幹線で大阪へ出張に向かうサラリーマンが車内で北海道のいか飯に
舌鼓を打つ姿も見られるようになったと。駅弁はグルメのジャンルに
定着したということだろうか。

かって昭和の時代に旅先で味わう駅弁が格別にうまかったのは、
その土地の空気の中で食べたからではないだろうか。おかずも素朴で、
弁当のふたについたコメを一粒ずつはしでつまむと日なたの香りが
したことを思い出す。今、東京駅のコーナーでよく売れているのは
東北の弁当と聞くが、お客の中には被災地復興支援への
思いもあるようだ。

かっての「文庫本を持って旅に出よう」というキャッチフレーズにならって、
「駅弁を食べに地方へ旅立とう」。それでこそ真のグルメだと
新春早々呼びかけたいと思いも浮かぶ。

心の歌

寒波で凍える列島。松が明けないうちから
「体罰死」のニュースに心も冷え込んでしまいそうだ。
だから余計にというべきか、年の瀬にもらった
ある温(ぬく)もりが思い出される。77歳にして、
NHK紅白歌合戦に初出場の三輪明宏さんが、
全身黒の衣装で熱唱された「ヨイトマケの唄」である。

発売は1965年。工場現場で働き、貧しくとも強く生きる
母と子の姿を歌う。長崎市で生まれ育った三輪さんの
幼少時代の友人をモデルにして、作詞・作曲とも自ら手掛けた。
労働への賛歌でもある。創作の原点は、ある炭鉱町での公演
だったそうだ。気乗りしない舞台に立つと客席に目を奪われた。

「手や顔に黒い石炭が染み付いた人たちが歌に聞き入り、
満場の拍手を送ってくれた。自分が恥ずかしかった」。
三輪さんは、その時をこう回想する。額に汗して働く人たちに
喜んでもらいたい。そんな思いでつくった「ヨイトマケー」だったが、
差別的な言葉が問題視され放送禁止になった。しかし
半世紀近く、多くの歌手がそのメロディーをつないでできた。

<どんなきれいな唄よりも、どんなきれいな声よりも、
僕をはげまし、慰めた/かあちゃんの唄こそ世界一.>。
その歌はネットを通じ若者にも反響を呼んでいるそうだ。
親が子を、子が親を思う。いつの時代も錆びない
心の歌に暖をとる。

名門部屋の閉鎖

大相撲で出羽の海、春日野などと並ぶ名門だった二所ノ関部屋が
1月場所限りで閉鎖されるという。戦前の玉錦、戦後の大鵬という
昭和の大横綱をはじめ名解説者だった神風と玉の海、大麒麟や
青葉城といった人気力士を輩出した。力道山も在籍していた。

世代によって差があるかもしれないが、最強の横綱といえば、
大鵬を挙げるファンが今も多いのではないだろうか。
昭和30年代から引退する40年代半ばまでの大相撲の
一番の醍醐味は、この人の圧倒的な勝ちっぷりを見ること
だった気がする。同時代の好敵手、柏戸の豪快さとは対照的な、
冷静で手堅い取り口は、他の力士にない風格を感じさせた。

北海道で定時制高校に通いながら営林署のアルバイトを
していたとき、巡業に来た二所ノ関一門の力士に紹介されて入門。
異例の早さで昇進し、横綱になったのは21歳だった。よく
使われた「相撲の天才」という言葉を嫌った。当時の部屋は
荒稽古で知られ、<誰よりも多く、厳しい稽古をして強くなった>
という思いがあったからだ。(ロング新書『相撲道とは何か』)

四股、鉄砲、すり足などを反復するなかで学んだのは、
礼儀、しきたりであり、(力士として強くなろうとすることは、
人としての品格をあげる)という基本だった。閉鎖されることに
ついて、大鵬の納谷幸喜氏は「いろいろな人たちで築いてきた」
「寂しい」と語られたそうだ。言葉に込められたのは、
部屋の消滅への悲しみと、「品格」という相撲の極意が
失われないでほしいという願いだろう。


 

景気

暮れの大みそかに珍しくテレビで落語をやっていた。
しかも立川談志師匠の「芝浜」だった。一昨年亡くなった師匠が
十八番にしていた演目である。酒好きでうだつの上がらない
魚屋とその女房。浜で拾った大金を女房から夢だと思い込まされた。
一念発起して断酒。店をもてた3年後の大みそかに
真相を明かされるという人情噺だ。

師匠の工夫は、偉ぶらない女房の演出。「おまえさんに
あたしァうそをついたんだよ。腹がたったら、あたしをぶつなり、
けるなりして、それで勘弁しておくれ」と、涙ながらに謝罪
する場面は胸にぐっとくる。

と、いい気持ちになって新年を迎えたら、世の中は株の話で
持ちきりになった。週刊誌には「2万円」の見出しも載っていた。
「今度の参院選までかな?」「来年の消費税増税までは
頑張るでしょう」。円安とともに期待を込めながらも、
まだ恐る恐るといった感じだろうか。

何しろこの株高円安は、まだ実体が伴っていない。
それでも景気は気からという。政権交代で気が変わり、政治家の
「口先介入」もあった。麻生太郎財務相は年末に財務省で、
「株価が1万5千円にもなれば、何となく気持ちが豊かになる」と
数字を挙げて訓示したものだ。

相場のことは相場に聞け、という。考えても考え切れるものでは
ないということだろう。「芝浜」では、女房から酒を勧められた魚屋が
口に近づけた杯をふいに置く。「よそう。また夢になるといけねえ」。
落語の落ちを反すうしながら、3年後の日本を想像してみた。

棋士対コンピューター

正月早々、暇を持て余した小学生の孫が珍しく将棋を指そうという。
久々の一番は完敗。おかげでほろ酔い気分もさめてしまったが、
子どもの成長を垣間見たひとときでもあった。わざと負けて
喜ばせたころが懐かしい。

人よりも成長著しいのが将棋のコンピューターソフト。
暮れに亡くなった米長邦雄永世棋聖が1年前、敗北を喫したのは
記憶に新しい。現役でないとはいえ日本将棋連盟会長だ。
衝撃的だった。棋士対コンピューターの次回対決は3~4月。
今度は現役プロとの真剣勝負となる。

チェス、シャンチー(中国)、チャンギ(朝鮮半島)など世界に
多様な将棋がある中、持ち駒を使うのは日本将棋のみだ。
異民族との戦争がまれで敵兵の「寝返り」が珍しくなかった
日本ならでは、との指摘もある。いずれにしろ,このルールが
ゲームを極めて奥深いものにした。

一方、ソフトも飛躍的に進化した。米長さんを破った
「ボンクラーズ」は、1秒間に約1800万手を読むつわものだ。
米長さんはその弱点を研究し尽くし、人間相手では使わない
指し手でかく乱した。しかし、後半の致命的な「見落とし」で投了。
経緯は自著『われ敗れたり』(中央公論社)に詳しく記されている。

本はミスの裏にあった、ある事件にも触れていられる。
夏休みに記者から突然写真を撮られて立腹された。
「平常心を失った」と悔やまれる。いかにも人間らしい負け方に、
ほっとさせられる。チェスの世界王者がソフトの軍門に下って15年。
果たして将棋は。米長さんも気をもんでいられるに違いない。

財政の崖

初詣、初売り、初夢・・・。年の初めに何かと「初」をつけるのは、
心を新たにするすがすがしい先人の知恵か。おとそ気分の
三が日も過ぎ、昨日が初仕事という人も多いだろう。
とりわけ景気の回復が期待される新年である。昨年末から
世界が注視したのが「財政の崖」である。減税の失効と
強制的な歳出削減の問題だ。二つが同時に実施となれば、
米経済は崖から転落するように逆風に見舞われ、世界経済に
深刻な影響を与えると懸念された。

上院と下院で多数派が異なる議会のねじれから、
民主、共和両党が激しく対立し、政策の妥協が図れない状態は
オバマ大統領が再選を決めた後も続いた。回避策が
期限ぎりぎりで成立したのは、経済の立て直しが急務の
日本にとっても、まずは朗報だった。

景気の「氣」は人の気持ち、商機の「機」はタイミングチャンス
のことという。企業経営者や消費者心理の良しあしは
経済状態を表す指標ともなる。経営者は売れる好機と思えば、
生産や雇用を増やす。消費者も先行きに明るさを見いだせば、
消費を増やしたくなる。逆なら控えることになる。

年末に発足した安倍晋三政権は金融緩和などを柱とする
「アベノミクス」を打ち出し、これを好感として年末の市場は
株高と円安が進行した。この流れと成長戦略が景気の回復に
つながればいいのだが。

駅伝

駅伝は見るものを熱くさせる。近年、人気が高まっている。
正月三が日、全日本実業団対抗駅伝、大学生の箱根駅伝と、
立て続けにテレビで観戦した。駅伝は日本生まれの競技だ。
1917(大正6)年に京都から東京までの約500キロで
行われたのが最初だそうだ。名称は、奈良時代に役人や
公文書を運ぶためにおよそ30キロごとに乗り継ぎの馬などを
配置した駅伝制にちなんだそうだ。

駅伝のコースは起伏の激しい道路。急な下り坂から緩い
下りに差し掛かると、選手は上り坂だという錯覚に陥る。
長時間のレースだから、風雨の影響も受ける。トラック競技とは
異なる難しさがある。
ペース配分が難題だ。抜きつ抜かれつの展開は駅伝の
醍醐味ではあるが、むやみに前を走る選手を追い抜くと
体力を消耗して後半にバテルこともある。
冷静な状況の見極めが求められる駅伝はハプニングが
起きやすい競技なのだ。

懸命にタスキきをつなぐ姿は見る者の胸を打つ。
私も川崎市役所そばの沿道でよく観戦したが、
困難にくじけそうになる自分を奮い立たせた。
かって思うように走れない外国人があっさりと棄権し、
「個人主義の外国人に駅伝は向いていない」と話題に
なった時期もあった。でも、今や海外でエキデン大会が
開かれるまでになった。山あり谷ありの人生にも似た
日本発祥の駅伝の魅力に世界が気付いたらしい。

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