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2021-08-19
オリンピックが無事終了し、そのあとの夏休みは
コロナ禍の中遠方へは行けず、ある一日は上野の
東京都美術館でアート鑑賞。きっかけはTVの美術番組で
「イサム・ノグチ」展が開かれているのを見たことです。
上野駅の公園口を降りると目の前には東京文化会館。
私は上野というと動物園ではなく前川國男設計の
この素晴らしい音楽堂の建物をまず思い出します。
その先にある東京都美術館が同じ前川國男の設計により
1975年完成したことを今回調べて初めて知りました!
さて私はイサム・ノグチの名前は知っていても
実際に作品を見るのは初めてです。天然石と金属を使った
作品の一つひとつに不思議な磁力?があり見ていて飽きない!
彼は1904年日本人の父とアメリカ人の母の間に生れ、
3歳から14歳まで日本で過した後、単身渡米し彫刻家を
目指しました。第二次大戦のとき日系人収容所に入った彼は
フランク・ロイド・ライト等の嘆願書により出所できたとのこと。
その後日本とアメリカを行き来し、彫刻以外も商業デザイン
舞台美術、絵画など幅広い分野で才能を開花させました。
横浜のこどもの国建設にも協力、いくつか作品が残っている
というのは意外でした。高松市にも彼の美術館があるそうです。
この美術館の好きな所の一つは共用部の大きな開口で、
置かれているシンプルな椅子や家具が素敵に見えます。
またオリンピックの公式アートポスターが貼ってあるコーナーは
屋外のグリーンを背景にポスターがとても映えていました。
帰り道、国立西洋美術館の前を通ると工事中の貼り紙。コルビユジエ
の原設計に戻すよう改修されるとのこと。こちらも楽しみです。
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ページ作成日 2021-08-19
2021-06-02
新聞を見ていたら「戸塚のシンボル改修」という見出しが…
この建物は横浜薬科大学の図書館棟で、かつて「横浜ドリーム
ランド」にあった「ホテルエンパイア」だったのです!
横浜ドリームランド…子供の時、家族で一度行ったときの
印象は強く、広い敷地に高層ホテルがそびえ立っていたことを
覚えています。そのホテルが形を変えて現存しているとは…。
東京ディズニーランドの開園の約20年前にオープンした
テーマパークの先駆けのドリームランドがなぜ姿を消したのか?
ずっと疑問に思っていたのでこの機会に調べてみました。
横浜ドリームランドは昭和39年に開園。敷地は132万㎡と
本家アメリカ・ディズニーランドの何と3倍の広さ!運営する
日本ドリーム観光はその3年前に奈良ドリームランドもオープン。
ジャングルクルーズや潜水艦、外周列車などは、当時多摩川園
など近くの遊園地しか知らなかった私にとって、別世界に来た
ようでした。その時の写真が最近見つかり、よく見ると21階建ての
五重塔をモチーフにしたホテルは工事中で「大林組」の看板が。
“本家”をしのぐ規模の横浜ドリームランドの欠点は交通の便の悪さ。
そこで開業の2年後、大船からモノレールを運行させたが1年半で
運休に。原因は車両の重さに橋脚が耐えきれずヒビが入ったのです。
売上減に伴い敷地は徐々に売却され住宅団地に変わり、不振の日本
ドリーム観光は1993年ダイエーの傘下に入ったが、そのダイエー
自体が経営難に陥って、2002年に37年の歴史に幕を閉じました。
閉園時の敷地は13万㎡で、開園時の1/10まで減少したとは!
その後横浜市が敷地の一部を買い取り2005年に俣野公園が開園、
翌2006年には横浜薬科大学が開校し、ホテルは図書館棟として保存、
屋根など手が加えられ五重塔ならぬ“戸塚のシンボル”になったのですが
こんな形でも残ったことを良しとしましょうか?
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ページ作成日 2021-06-02
2021-02-25
年が明けて新聞の「銀座に88歳のたたずまい」
という見出しが目にとまりました。昭和7年に
完成した「奥野ビル」が現存しているという記事です。
当時としては珍しい7階建ての高級アパートで
映画俳優や芸術家も住んでいたとのこと。ほどなく
書店で手に取った「復興建築」にも載っていた
こともあり、興味が湧いて見に行くことに。
(復興建築とは関東大震災後に生まれた建物のこと)
中央通りの銀座一丁目の交差点を右に入ると古いビルが
視界に入り、家内が「昔ここで面接を受けたことがある!」
言ったのが「ヨネイビル」でした。「復興建築」を見ると
昭和5年築で、現在も自社ビルとして使用中。
その先を左に折れて行った3軒目が「奥野ビル」。
外壁タイルのくすみ具合は相当なもので、中に入ると
かつてのアパートは、ギャラリーや小さなショップに
変わり、雰囲気は昭和20年代の“黒沢映画”そのもの。
私は表参道にあった同潤会アパートを思い出しました。
昭和初期に建てられたこの建物は十数年前に解体されて
ガラス張りの普通?の商業ビルになってしまいました。
旧同潤会アパート
さて本に出ていたもう1棟の銀座7丁目の建物へ。
「旧菅原電気商会ビル」で、今は3階までが椿屋珈琲店。
1杯1000円のコーヒーを楽しむお客さんが溢れていました。
帰りは銀座4丁目まで戻ると交差点には本の表紙にも
なっている有名な昭和7年築の「旧服部時計店ビル」。
銀座には現代建築の合間に歴史的な「復興建築」が
健在していることを再認識し、いつまでも「現役」
として活躍してくれることを願うものです。
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ページ作成日 2021-02-25