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2023-12-25
年の瀬が迫った日曜日は昨年と同様美術館巡り。
今年はテレビで皇居三の丸尚蔵館のオープンが
報じられたのを見て、お堀端に的を絞りました。
皇居大手門
昭和天皇が崩御したあと、残された絵画などの美術品
が1989年に国に寄贈され、その収蔵庫として1993年
に皇居東御苑に建てられたのが三の丸尚蔵館でした。
平成に入り東御苑自体の入園者が増加するのに従って
尚蔵館の入館者も増えて手狭になり、建て替えが行われ
先月開館、2026年完成の第2期工事も始まっています。
皇居東御苑
さて皇居の大手門に着くと今までは見なかった
入場者の荷物チェックが行われていました。
門をくぐるとすぐ右に尚蔵館はあったのですが既に
予約でいっぱいで、内部の見学は次の機会に。
三の丸尚蔵館
そのあとお堀端を日比谷方向に戻って帝国劇場へ。この
建物名は“国際ビルジング“でオフィスも混在している複合ビル。
初代の帝劇は1911年の開場で、1966年には谷口吉郎の
設計により隣接の三菱地所の建物と共同ビル化されました。
この2代目は演劇・ミュージカルの聖地として有名ですが
私はまだここでの観劇のチャンスに恵まれません。
出光興産はここを本社とし、9階には創業者・出光佐三
の収集した美術品を展示するための美術館を設置。
収集は日本と東洋の古美術が中心でこの日は「青磁」の
特集でしたが、私の好きなジョルジュ・ルオーのコーナーも。
ジョルジュ・ルオーの絵画
中には茶室もあり、館内ロビーからは皇居外苑が一望
できる素晴らしい立地の建物も、体験できるのは再来年まで。
そのあと壊されて再開発…。残念ながら都内の昭和時代の
多くの名建築がたどる道を歩むようです。
テーマ名
ページ作成日 2023-12-25
2023-11-29
先日、帝国ホテルを視察する会に参加しました。
今の建物は1970年(昭和45年)に完成の3代目です。
初代は1890年(明治23年)の開業。明治維新後、
外国人迎賓施設として建てられたホテルで経営会社の
株主は宮内省が筆頭で、渋沢栄一や大倉喜八郎の名も。
設計は鹿鳴館を設計したイギリス人のコンドルの教え子で
ベルリン留学帰りの新進気鋭の渡辺譲が選ばれ、ドイツ・
ネオ・ルネサンス様式の優美な建物が完成しました。
1909年(明治42年)には日本人初の林愛作が支配人に就任。
この頃から本館建替えの話が出てきて、それまでアメリカ
での勤務経験が長かった林の旧知の建築家、フランク・
ロイド・ライトに設計を依頼することになったのです。
2代目の開業日は1923年(大正12年)の関東大震災の日!
建物は軽微な損害で済み、低層でシンメトリーな建物は
大谷石と煉瓦が多用され、独特の雰囲気を醸し出していました。
それでも昭和40年代には雨漏りなどの問題から建替えが決定。
昭和45年に地上17階建ての今の3代目が完成したのです。
設計したのは前田侯爵邸や川奈ホテルを手掛けた高橋貞太郎。
今回館内を見学して、外観からは覗えないライトの意匠が
内部空間に色濃く残っていることが分かりました。
チャペルと茶室を見学した後「F・L・ライト・スイート」へ。
まず入口ドアには幾何学模様が施され、リビングからダイニング、
寝室にもライトの意匠が取り入れられ、宿泊費は150万円!
2階の「オールドインペリアル・バー」へ行くと、重厚なバー
カウンターを通って奥にある大谷石の壁は当時のものとのこと。
この3代目も再開発の波に呑まれて?建替えが決定。果たして
「4代目」にはライトの遺産を残すことができるのでしょうか。
テーマ名
ページ作成日 2023-11-29
2023-10-16
先日、二子新地の周辺を散策する会に参加しました。
主催は「大山街道ふるさと館」という川崎市の施設で、
当社が工事を施工して平成4年に開館。大山街道に関わる
歴史などの展示とともに、学習の場も提供しています。
大 山 街 道
ふ る さ と 館
大山街道は江戸の赤坂御門から雨乞いで有名な大山までの道。
江戸時代中期 に「大山詣り」がブームになって有名になり
後期には駿河のお茶、秦野のたばこなどを江戸に運ぶ輸送路
として多くの物や人が行き来して栄えた歴史ある街道です。
当日私たちは小雨の降る中二子新地駅に集まり、多摩川の
「二子の渡し」のあった場所へ。大年14年に二子橋が架かる
まで、ここから渡し船で対岸の瀬田と行き来していました。
土手を降りると岡本かの子の文学碑があり、ここにある彫刻は
かの子の息子・岡本太郎の作、台座は何と丹下健三の設計!
かの子の実家「大貫家」は江戸時代には幕府の御用を務めた
高津の大地主。今はない大貫病院の跡地にも立ち寄りましたが
この病院は、かの子の弟の大貫喜久三が大正10年に開設した
ことが、今回調べて初めて知りました。
かつての大貫病院
現在の跡地(マンションと公園)
最後に訪れたのは料亭「やよい」。途中の古い街灯柱には
「二子三業組合」の文字。三業地とは芸妓置屋・待合・
料亭の三業種の営業が許可された区域とのことです。
酒造業のかたわら東京・吉原で待合を営んでいた大貫吉之承は
橋の開通後に二子にも歓楽街をとまず自分の水田に待合「大和」
を開店。その後吉原や向島の料亭などにも声をかけ、最盛期には
100人の芸者が行き交う花街が出来たのですが、今残っている
のはこの「やよい」だけで、営業は既に終了しています。
戦後建てられたこの料亭は、改修の跡もなく当時の雰囲気を
そのまま保っていました。何とか将来ともこの建物を残して
二子新地の歴史を後世に伝えていく方法はないでしょうか?
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ページ作成日 2023-10-16
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