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2021-06-02
新聞を見ていたら「戸塚のシンボル改修」という見出しが…
この建物は横浜薬科大学の図書館棟で、かつて「横浜ドリーム
ランド」にあった「ホテルエンパイア」だったのです!
横浜ドリームランド…子供の時、家族で一度行ったときの
印象は強く、広い敷地に高層ホテルがそびえ立っていたことを
覚えています。そのホテルが形を変えて現存しているとは…。
東京ディズニーランドの開園の約20年前にオープンした
テーマパークの先駆けのドリームランドがなぜ姿を消したのか?
ずっと疑問に思っていたのでこの機会に調べてみました。
横浜ドリームランドは昭和39年に開園。敷地は132万㎡と
本家アメリカ・ディズニーランドの何と3倍の広さ!運営する
日本ドリーム観光はその3年前に奈良ドリームランドもオープン。
ジャングルクルーズや潜水艦、外周列車などは、当時多摩川園
など近くの遊園地しか知らなかった私にとって、別世界に来た
ようでした。その時の写真が最近見つかり、よく見ると21階建ての
五重塔をモチーフにしたホテルは工事中で「大林組」の看板が。
“本家”をしのぐ規模の横浜ドリームランドの欠点は交通の便の悪さ。
そこで開業の2年後、大船からモノレールを運行させたが1年半で
運休に。原因は車両の重さに橋脚が耐えきれずヒビが入ったのです。
売上減に伴い敷地は徐々に売却され住宅団地に変わり、不振の日本
ドリーム観光は1993年ダイエーの傘下に入ったが、そのダイエー
自体が経営難に陥って、2002年に37年の歴史に幕を閉じました。
閉園時の敷地は13万㎡で、開園時の1/10まで減少したとは!
その後横浜市が敷地の一部を買い取り2005年に俣野公園が開園、
翌2006年には横浜薬科大学が開校し、ホテルは図書館棟として保存、
屋根など手が加えられ五重塔ならぬ“戸塚のシンボル”になったのですが
こんな形でも残ったことを良しとしましょうか?
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ページ作成日 2021-06-02
2021-05-20
先週土曜日、大船駅前のあるレストランへ。
ここにはグランドピアノが置いてあり、ときどき
ランチコンサートなどが行われているようですが
この日は高校のクラブの後輩が室内楽を演奏するのです。
。
バイオリンを弾くG君は金融機関に勤めながら鎌倉にある
市民オーケストラのコンサートマスターを務めていて
時おり演奏会の案内を送ってくれます。当日のプログラムは
ベートーヴェンのピアノ三重奏曲の2曲です。
私が高校在学中の昭和44年、友人2人と立ち上げた
「クラシック音楽同好会」は40数年経って「部」に昇格し
OB会も出来て後輩のG君とも交流が始まったのです。
室内楽を間近で聴けたのは良かったですが少し密な感じが…。
帰りがけに横浜で下車し、バラのシーズンということもあり
「港の見える丘公園」へ。ここは山下公園と並ぶ海沿いの名所で
30年前にバラ園がオープン、バラは横浜市の花でもあります。
明治に入り横浜が開港されこの一帯は外国人居留地となり
太平洋戦争後も進駐軍が接収、その後横浜市が公園用地として入手、
公園としてのオープンは昭和37年、戦後ヒットした流行歌
「港の見える丘」にちなんで命名されました。
中華街方向から数百段の階段を上ってフランス山地区という
旧フランス領事館があった大きな樹木の生い茂る高台へ。そこに
再現された風車はかつての公邸の井戸を汲みあげるためのもの。
その先の展望広場で横浜港のベイブリッジを眺めてから
イギリス山地区に入ると大佛次郎記念館や、昭和12年に英国
総領事公邸として建てられたイギリス館まで様々なバラや草花が
咲き乱れ、このシーズンのバラはここで十分堪能できました。
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ページ作成日 2021-05-20
2021-04-20
先日、父親の書棚を整理していたら、とても古い
2枚の絵葉書が出てきました。両方とも海外から
祖父・市川重太郎あてに出されたものです。
1枚目は昭和40年元旦と記されたカンボジアからの
年賀状で、送り主名は当社お客様の田辺進、淑江さん。
田辺さんご夫妻は昭和39年の7月に日本からの
海外協力事業団の一員としてカンボジアへ渡りました。
これが太平洋戦争の補償請求権を放棄した東南アジアの
国々への援助の始まりで、当時東京農工大学の助手だった
田辺さんは農林省の派遣技官として参加したのです。
調べると日本の青年海外協力隊が出来たのは翌昭和40年
なので、その先がけの行動だったのでしょう。プノンペン
から500㎞も入った所で奥様のお話では、現地では水道水も
濁っていて、今の人ではまず生活できない?とのこと。
シアヌーク殿下より功労章を授与
さて田辺さんは一昨年まで当社の監査役だったのですが
その前はお父様の田辺亘さんに長い間お努めいただきました。
また昭和59年には当時この地区では一番高い新城駅前の
10階建ての建物の発注をいただき施工しました。
地鎮祭での田辺さん親子
もう1枚はそのお父様からの葉書で切手はシンガポールのもの。
昭和38年から市会議員を1期務めた田辺亘さんは視察で
東南アジアを訪れ、その折に出した絵葉書と思われ、この時は
訪問先のタイ・バンコクまで進さん夫婦が会いに行ったそうです。
大戸神社の境内に「下小田中土地改良事業完成記念」の碑があり
そこには理事長“田辺亘”の名が。今この地区の道路が碁盤の目の
ようになっているのは昭和29年に着手したこの耕地整理のおかげで、
理事長宅には連夜訪問客が絶えなかったことを亘さんの奥様から
随分前に聞いた記憶があります。2枚の絵葉書により昭和時代の
田辺家の地域、海外両方への貢献を再確認できました。
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ページ作成日 2021-04-20
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